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「FORTUNE宮城」vol.5

震災後3年目、迫られるまちづくり

高度経済成長期、日本中が急速に上向く景気にうかれていた。人口も所得も増えた。家にTVが入り、電話がつながり、
自家用車を手に入れ、その度に生活が向上したような気がし
た。それから何十年が経った今、ツケは至るところに出ている。
繁盛していた商店街も今やシャッター街化しているところばか
りだ。
 
第二次大戦以降、皆が同じ方向を向いて走ってきた。その間の見直しを迫られている中、3.11の津波は三陸沿岸部から有無を言わせず全てをかっさらっていった。思い出や記憶も、海底のヘドロさえもだ。被災地は見直しを先送りにする余裕はなくなった。国の集中復興期間が終わる平成27年度末に向けて、行政側はやっきになって事業を進めていくだろう。平らになっている土地をどうするのか、どう進むのか、行政任せにするという選択も含め地元住民の意思にかかっている。
 
5月3日、気仙沼市本吉町前浜地区コミュニティセンターの棟上式には大勢の人が参加していた。震災直後から再建の為に何度も話し合いを重ね、幾多の難題を解決し、汗を流してきた。人が喜びをわかち、学び、考え、意思決定をする場を自らがつくる。それは人の感動を呼び覚まし、支援者はどんどん増えていった。この日、集まって来た人は皆、晴れやかな顔をしていた。地域の文化と歴史がまたここに刻まれようとしている。

FORTUNE宮城
編集部 河崎清美


「FORTUNE宮城」vol.4

復興の踊り場から変化の年へ

「ここにコンビニが来て、ここは削って皆の畑にして、ここにはメガソーラー設置。電柱は景観が悪くなるから家の裏に建てて・・・・・」
新たにできる高台の話に夢が広がる。

1年前の今頃、離れた土地で震災の記憶が風化しているということが問題視されていた。震災後2年が経とうとしている今、被災地でも土地がならされ、震災が残した傷跡も消えていこうとしている。避難先に移住を決意した人もいる。集団移転に向けて着々と計画が進んでいるところもある。平日にイベントをしても集会所に来る人は少ない。仕事に出ているからだ。人々は新しい生活を始めている。

しかし、裏を返せば、住宅の二重ローンを抱え、仕事は臨時雇用であったりする。足場がしっかりした上に新しい生活が始まっているというよりは、不安定な足場を固めながら積み重ねていくといった方が適切だろう。
一歩一歩進んでいく状況に喜びを見いだす人もいれば、先の見えなさに打ちのめされる人もいる。先を行く人や集団を見れば焦りも感じるだろう。目に見えないところで人々は激しく揺れ動いている。

国の集中復興期間は平成27年度までとされている。次の一年は激動の年になるであろう。
個人にとっても、ひとつの町にとっても。

FORTUNE宮城
編集部 河崎清美


「FORTUNE宮城」vol.3

風景が変わる時

2012年10月、震災後1年7か月が過ぎた。初めて被災地に足を踏み入れた人が「まだこんな状況なのか?」と驚きの声を発するような雑草の生い茂る風景も、住んでいる者にとってはある意味、見慣れた風景だ。震災の象徴とされている物のそばには観光バスがとまり、花束を手向ける人、カメラを持って写真を写す人。
1年前だったら、心中かき乱される人も多かったろうが、今は、それも一つの風景となりつつある。そして、観光バスはその後復興仮設商店街へと向かい、別の場所ではボランティア達が細かいゴミを拾う。
果たして、この風景がいつまで続くのか。
いつかは、彼らの姿を見なくなる時が来るのは確かだ。

震災後、「津波は何もかも流してしまった」という声をよく聞いた。将来を考え、町を離れる者も少なくない。しかし同時に「今を好機」と考える者もいる。この平たくなった地に次に見えてくるものは何なのか。それは今、そこに立ち、考え、そして動き始めた者次第なのだ。ここで興ってくるものは、もしかすると、日本中、いや、世界中を変えることができるものかもしれない。
それは、私達の生き方そのものにかかっている。

FORTUNE宮城
編集部 河崎清美


「FORTUNE宮城」vol.2

変わること、繋がること

6月30日、石巻の巨大缶詰が解体撤去された。震災前は石巻港のシンボルであった一つであったこの木の屋石巻水産の魚油タンクは、津波で300メートル程流され、道路の真ん中に潰された状態で横たわっていた。震災後約1年半、違った意味でのシンボルとしてそこにあったものが終わった。

南三陸町では建築物の残骸は基礎から取り除かれることになっている。外から来たある人が地域の人と話している時、「無くなる」ということに意識のズレがあることに気付きハッとしたと言っていた。外から来た者にとっては、物理的な喪失で終わってしまうことも、そこで生まれ育った者には、同時に「思い出(記憶)が無くなっていく」、そんな気持ちにさせるものなのかもしれない。
気仙沼市鹿折地区には、何にも無くなった平野に鉄骨で支えられた巨大な船、第十八共徳丸がそそり立っている。その周りを視察団や観光客と思われる人々が行き交う。その姿を尻目に、流された家の基礎部分に花壇をつくっている。「入らないでネ ひまわり咲きます 鹿中31期生」と手書きで書かれた看板が目に入った。
もと在った同級生の家の跡にひまわりを植え、生育状態をブログで送っているという。震災後の安否確認からはじまり、今では160名程の同窓生のうち、100名程が、何らかの形で繋がっているそうだ。「震災が無ければ、こうやって大勢の同級生と蜜に連絡をとりあうことも無かった。」と代表の原沢さん。東京から訪れている。

8月のひまわりが咲く頃にはまた皆で集まるそうだ。
壊されたものは大きいが、新しい繋がりもできた。

平成24年7月22日
FORTUNE宮城 編集部


「FORTUNE宮城」2012創刊号 

創刊にあたって

三陸沿岸部は平成23年3月11日の東日本大震災により甚大な被害を受けた。
南三陸町は本誌の拠点である登米市に隣接するが、ここも主要な産業が集まっていた平野部はほとんど津波で流された。
一年前、倒壊した建物、崩れた線路、潰された車、瓦礫、そしてガレキ・・・ カオスの中を「災害救援車両」の印をつけたトラックや車が休む間もなく走っていた。今、その地には、基礎のコンクリートをむき出しにした荒涼とした風景が広がる。ところどころに残る鉄筋ビルの残骸、各所に見える瓦礫の山が津波の驚異を垣間見せている。
しかし、この風景もまた刻々と変化していく。残っている基礎は全て取り払われ、「防災対策庁舎」の痕跡も撤去されることが決まった。
新たなまちづくりが始まっている。

「fortune」には「未知で、予測できない現象」そして、「幸運」といった意味がある。
予測できなかった破壊、喪失と悲しみが渦巻く混沌の中、確かな喜びもあった。再開の喜び、生きている喜び、話し合える喜び、分かち合う喜び、共に働く喜び・・・ それは新たな出会いとこれから沸き立とうとする力にも続いている。
今をポジティブな転換期として据えている人も少なくない。
自信喪失、先への不安、放射能問題、高台移転、コミュニティの崩壊と構築、等々、問題は山積みである。
しかし、「人」は歩き始めている。人と人が繋がることで、新たに沸き立つ力は、さらに力強く、しなやかに振動していくことだろう。
平成24年5月21日 FORTUNE宮城 編集部


編集長プロフィール

河崎 清美 kawasaki kiyomi

広島県出身。溶接工からウエイトレス、中学の美術教師、介護職員など、様々な職業に就く。
震災後は4月から被災地に入り、RQ市民災害救援センターほかで支援活動に入る。主に地域支援活動に携わるなかで、被災地から発信することの必要性を感じ、2012年5月、フリーペーパー『FORTUNE宮城』の刊行を始める。